1939(昭和14)年の第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後、日本軍参戦に備えて民間船舶の徴用が一気に拡大し、1941年夏までに当社遠洋定期航路はすべて休止されました。徴用後は航空母艦に改造されたり軍事物資の輸送船となったり、用途はさまざま。いずれにしても危険海域を航行することには違いなく、1943年から2年間で185隻もの船舶が海に消えていきました。
そして、そこに乗船していた多くの人々の尊い命も奪われていったのです。今もその船体のほとんどが海底深く沈んだままですが、後年、わずかに引き揚げられた物の中で「横浜丸」の食器、「諏訪丸」の窓枠、「能登丸」の船名板の3点が歴史博物館に展示されています。
これらは、戦争による船舶の被害を後世に伝える貴重な「船の遺品」です。「横浜丸」の食器は長年海底にあったため、絵が消えかかっていますが、かすかに二引のマークが見てとれます。「諏訪丸」の窓枠は、米国兵士が海底にある船体から外して保管していました。「能登丸」の船名板は、1974(昭和49)年にフィリピン戦没者遺骨収集政府派遣団によって発見。その後、フィリピン政府の好意により日本に戻され、歴史博物館に寄贈されました。
社内報「YUSEN」
2004年8月号
【表紙のことば】 1937年5月6日、ニューヨーク近郊のレークハーストに着陸寸前の飛行船「ヒンデンブルク」号は、瞬く間に炎に包まれた。水素爆発の危険性から「禁断の乗り物」とされた飛行船も、現在では不活性ガスを使用することで、高い安全性が証明されている。
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