明治維新に始まる近代化の歴史を「海運の発達」という側面から眺めることは、貿易立国・日本の姿を見つめ直すうえで、大きな意味をもつ。
坂本龍馬率いる海援隊商法に思想面で影響を受け、土佐で海運業を興す決意をした岩崎彌太郎は、藩の汽船購入やその資金調達の仕事を通して経営の方法を学んだ。そして1870(明治3)年、東京・大阪・高知間で海上物資輸送を行う九十九商会(後の三菱商会)を設立した。
1873(明治6)年、国内外の定期航路を開こうとした三菱商会の前に、米国のPM社(Pacific Mail Steamship Co.)をはじめとする外国企業が立ちはだかる。当時の内外航路は欧米の海運会社が独占し、日本は事実上その支配下に置かれていた。「我々は日本の代表として、内外の航路を自分たちの手に取り戻さなければならない」。彌太郎率いる三菱商会は1875(明治8)年、PM社の牙城であった日本と上海を結ぶ航路に定期船を就航させた。規模も実績も大差がある欧米海運会社との戦いは、熾烈を極めた。
今でいう貸借対照表や損益計算書を自分なりに作成し、いち早く近代的な経営手法を導入。荷主に貨物を担保とした荷為替金融(現在の海上物品運送契約における船積船荷証券に近いシステム)を開始するなど、企業人として非凡な才能を持っていた彌太郎によって組織の基盤を固め終えた三菱商会は、激しい運賃競争の末に市場を制していった。やがてPM社は日本の沿岸航路から撤退、上海航路を引き継いだ英国のP&O(Peninsular & Oriental Steam Navigation Co.)社も半年後に断念。1876(明治9)年、三菱会社(当時は郵便汽船三菱会社に改称)の活躍でわが国の海運会社は、内外航路に自由に配船できるようになった。1877(明治10)年の西南戦争の際、郵便汽船三菱会社は軍事輸送の主役を務め、信用と利益を得ると同時に、海運事業を飛躍的に発展させた。
1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社は、国内の競争相手であった共同運輸会社と合併し日本郵船会社が誕生する。白地に引かれた二本の赤いライン、通称「二引の旗章」は、当時の日本海運界を代表する三菱会社と共同運輸の二社が大合同したことを表すとともに、日本郵船の航路が地球を横断するという決意を示していた。
Episode1日本の洋食の源流
日本郵船の客船サービスは世界トップクラス、特に食事のすばらしさには定評があった。
帝国ホテル、精養軒と並び日本郵船が日本の洋食の源流と評されるのは、船の厨房で鍛えられたコックが下船して広くその味を伝えたため。
日本のフラッグシップ・キャリアとなった日本郵船は、積極的に航路を拡大していった。国内主要港に支店、出張所を設け、外航では朝鮮半島や中国、マニラ、ウラジオストクまで定期配船を行うとともに、東南アジア、南太平洋、北米などの遠洋航路に不定期船の運航を始めている。次の課題は、ボンベイ(現ムンバイ)への遠洋定期航路の進出であった。
当時、基幹産業として日本経済をリードしていた紡績業でインドからの綿花輸入量が急増していた。ところが、日本とインド間の航路は英・墺・伊の三社が組織する「ボンベイ・日本海運同盟」が支配、綿花に課せられていた高率の運賃が、わが国産業の振興の大きな障害となっていた。
1893(明治26)年、「本航路上のみならず、貴社の既得航路においても激甚な競争を試みる」という同盟側の強い中止要求にもひるまず、日本郵船は国内紡績会社連合会と1年間の輸送契約を結び、ボンベイ定期航路を開設した。同盟側の大幅なダンピングに対し、日本郵船は適正価格を守り通した。紡績会社の多くが「自国の海運を守らなければならない」という強い意識で団結をしていたことも、大きな力になった。
2年間の激しい競争の末、競争停止を申し入れたのは同盟側だった。日本郵船のボンベイ航路は国際的に認められ、近海海運から遠洋海運へと事業は拡大していった。
続いての挑戦は欧州航路だった。日本郵船は1896(明治29)年にロンドン支店を設置し、土佐丸をヨーロッパに向け出航させるが、またしても欧米の海運会社による同盟が既得権を主張し、復路(東航)のロンドン、往路(西航)の上海寄港を阻止してきた。最大の貨物集積地に寄港できないことはビジネス上大きなマイナスだったが、同盟側を刺激すればビジネスそのものができなくなる。屈辱的な条件の下で運航を続けながらも、日本郵船は船隊の拡充を進めていった。
信濃丸を含む13隻が揃い、総トン数で欧米海運会社に匹敵する体制が出来上がっていく。こうなっては同盟側も日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得ない。1902(明治35)年、日本郵船は欧州極東往航同盟への正式加入を果たし、これを契機に海外への航路網を飛躍的に伸ばしていった。
矢継ぎ早の新航路開設により、日本郵船は世界有数の海運会社に成長。貨物輸送はもちろん、客船ビジネスでも高い評価を得ていった。来日時には日本郵船の客船に乗ることを常に希望したチャップリンをはじめ、アインシュタインやヘレン・ケラー、リンドバーグなど国際的著名人が乗船名簿にその名前を残し、多くの渡航者を満足させた歴史がある。
Episode2ユダヤ人の命を救った日本郵船
「日本のシンドラー」と称される杉原千畝。駐リトアニア領事だった杉原は独断でビザを発給し、ホロコーストを逃れる多くのユダヤ人の命を救った。日本経由でパレスチナや北米へ向かう難民たちの救出に協力したのは日本郵船。ユダヤ人難民のリーダー、ゾラフ・バルハフティクはその著書『REFUGEE AND SURVIVOR』の一章、NYK PROJECT に当時の模様を克明に記している。
日本の海運界は、第二次世界大戦で最も大きな痛手を受けた。それまで世界第3位の海運国として630万総トンの商船を保有していた日本は1945(昭和20)年、保有船舶量わずか150万トンと、ほぼ壊滅状態に陥った。しかし、ここから日本郵船は奇跡の復活を遂げる。
サンフランシスコ講和条約の調印式が行われた1951(昭和26)年、バンコク、インド・パキスタン、ニューヨーク、シアトル、カルカッタ航路再開を皮切りに、スエズ経由の欧州航路や豪州航路、中南米ガルフ航路、南米東岸航路、中近東航路、西回り世界一周航路、中南米西岸航路と、次々と戦前のネットワークを復活させていった。
そして1950年代後半(昭和30年代)、高度成長期を迎えた日本は輸出入が急激に拡大し、大型船の就航が望まれていた。油槽船(タンカー)をきっかけとする専用船の投入。これが日本郵船の出した答えだった。
当時の国際貨物の海上荷動量は、1950(昭和25)年に一般貨物を下回っていた石油輸送量が1960(昭和35)年ごろに肩を並べ、その後、一般貨物を凌駕している。エネルギー源の石炭から石油への移行、石油化学工業の発達などがその原因だった。世界規模での産業の変革は、世界の海運界に大きな課題を突きつけていたのである。「社会のニーズの変化に応えることが海運の責務である」日本郵船は大型油槽船の建造を決意し、1959(昭和34)年、第一船「丹波丸」を就航させた。当時、最大規模の油槽船の運航を不安視する声もあったが、業績は順調に伸びていった。この成功が多角化経営を方向付け、1962(昭和37)年の第二船「丹後丸」の就航、日本初の大型LPG専用船「ブリジストン丸」の運行開始、と日本郵船はエネルギー輸送事業へ本格的に乗り出していく。
多角化の次のステップは、多彩な専用船の建造である。世界初のチップ専用船「呉丸」、日本初のパルプ専用船「シトカ丸」、重量物運搬船「若狭丸」、鉱石専用船「戸畑丸」など、特定貨物向けの船舶が次々と竣工した。自動車輸出が増加するのに伴い、自動車兼ばら積船「第五とよた丸」、自動車専用船「神通丸」も就航。さらに超大型のプラント輸送モジュール船「すにもすえーす」というように、産業界のニーズに合わせて専用船を積極的に建造した。
組織面では三菱海運と1964(昭和39)年に合併し、世界有数の海運会社となった。東京船舶、太平洋海運、太平洋汽船、共栄タンカー、大洋商船など、人的・資本的関係の深かった海運数社をメンバーとして今日の日本郵船グループの基礎を作ったのもこの頃である。その後もグループは多くの企業を加えて成長を続けており、多様な事業を支える力となっている。
Episode3英国の小さな港町を親善の桜
創業100周年を迎えた日本郵船ロンドン支店に1通の手紙が届いた。
ミドルスブラという英国中部東岸の小さな港町から「1932年、当地に寄港した鹿島丸のキャプテン・ワタナベが公園に桜を贈ってくれた。けれども、桜は年老いてしまった。創業100周年を記念して桜を再び贈ってくれないか」という内容だった。
当時、日本郵船は寄港地をリバプールに変更し、渡辺船長が世話になった町に感謝の意をこめて贈った桜だった。手紙の届いた1985年4月19日、日本郵船の関係者、渡辺船長の子息が参加して植樹が行われた。半世紀を超えた友情がよみがえった。
専用船による原料輸入で産業界に大きく貢献しながら、製品輸出でも日本郵船は他の海運会社に先駆けて新たな戦略をスタートさせた。定期船のコンテナ化である。コンテナ化により、荷役時間の大幅な短縮、トラックや鉄道に直接積み換えての内陸一貫輸送の実現など、従来の海上輸送の枠を越えて事業領域が広がった。大型で速力もあるコンテナ船は在来貨物船に比べて3〜4倍の輸送能力をもつが、コンテナ船の建造、コンテナターミナルを含む港湾設備の整備や運営などに多大な投資が必要だ。それでも日本郵船は主要航路のコンテナ化を経営多角化の最優先課題とした。
1960年代後半から北大西洋航路に導入された事例を調査・研究をした上で、日本郵船は1968(昭和43)年に北米西岸航路に日本初のフルコンテナ船「箱根丸」を就航させ、コンテナによる定期輸送を開始する。その後、豪州航路、欧州航路、ニューヨーク航路と着実にサービス網を広げる一方、国内では京浜、阪神に続き横浜本牧、大阪南港、神戸ポートアイランド、東京大井にコンテナターミナルを建設していく。
コンテナ化の効果は一目瞭然だった。在来船では神戸・名古屋・東京・ロサンゼルス・オークランドを周回するのに80日かかっていたが、フルコンテナ船の箱根丸は、停泊日数短縮、スピードアップでわずか30日に縮め、船舶の回転率を大幅に向上させた。
コンテナサービスのネットワークを世界の主要地域に完成させた1970〜80年代にかけ、日本郵船の多角化と国際化は一気に進む。1973(昭和48)年にはフランクフルト証券取引所に上場し、2年後には海運会社初の外債(マルク債)を発行、海外金融市場からの資金調達の道を開いた。
コンテナサービスの深化につれて、陸・海・空全ての輸送を結んだ一貫輸送が求められるようになり、日本郵船は全日空や他の海運会社三社と共に1978(昭和53)年、日本貨物航空株式会社(NCA)を設立した。
こうして、日本郵船は世界各地に事業拠点をもつ総合物流企業グループへと変貌を遂げ、定期船、不定期専用船、物流、客船の各部門でトップクラスの実績を誇っている。新規事業への進出と組織変革は「二引の旗章」の心を引き継ぐとともに、新しいグループの統一ロゴマーク「ダブルウイング」を胸に掲げた次の時代のメンバーたちによって、今後も書き綴られていくに違いない。