船の歴史

Ship History

戦前に活躍した、日本郵船の船をシリーズで紹介します。

  • 氷川丸

  • 浅間丸

  • 照国丸

  • 天洋丸

  • 能登丸

  • 諏訪丸

氷川丸

1930(昭和5)年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載し、水密区画配置など先進の安全性を誇っていました。一等公室にはフランス人デザイナーによるアールデコ様式の内装が施され、太平洋戦争前には、秩父宮夫妻、チャーリー・チャップリンをはじめ、約1万人が乗船しました。

その後、1941(昭和16)年、太平洋海域の情勢が悪化する中、政府に徴用、海軍特設病院船として、終戦までに3回も触雷しましたが、日本郵船の大型船では唯一沈没を免れたのです。

戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、1947(昭和22)年に復元工事で貨客船に戻り、国内航路定期船、後に外航不定期船、1953(昭和26)年8月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。1953(昭和28)年には内装をアメリカンスタイルに改装し、シアトル航路に復帰、フルブライト留学生約2,500人を含む乗客、約1万6,000人を輸送し、活躍しました。

1960(昭和35)年、船齢30年に達し、同10月シアトル、バンクーバーから神戸に帰港、係留地横浜への回航を最後に第一線を退きました。

太平洋横断254回、船客数は2万5,000余名。

引退後は、係留地横浜で多くの人々に親しまれ、竣工78年目にあたる2008(平成20)年4月25日、「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンしました。

2016(平成28)年8月には国の重要文化財に指定されました。

氷川丸 主項目

建造所
横浜船渠(株)
全長
163.3メートル
総トン数
11,622トン
主機
B&W複動4サイクルディーゼル機関 2機2軸
スピード
18.38ノット
船客
286名

浅間丸

1929(昭和4)年9月15日にサンフランシスコ航路船として竣工した貨客船です。浅間丸、および同時期に造られた龍田丸、秩父丸(後に鎌倉丸に改名)の3隻は、「浅間丸型」と呼ばれ、船体、機関の構造、艤装面から、日本およびロイド船級協会の最高船級の資格をもっていました。

同年10月11日最初の航海のため横浜を出航し、横浜からホノルル経由サンフランシスコ間5,550マイル(約9千km)を当時では驚異的な12日7時間46分という速さで横断しました。また、到着したロサンゼルスでは2日間にわたって一般に公開し、押しかけた観覧者は1万5,000人を越えたといいます。

船内装飾は英国クラシック様式を基調とし、客室はもちろん、パブリックスペースも、従来の客船に比べて格段に豪華なものとなっていました。ラウンジ、読書室、ギャラリー、喫煙室、理髪室、美容室、写真用暗室のほか、郵便局、銀行(住友銀行)の出張所、旅行窓口、さらにはデパート(松坂屋)売店、劇場(トーキー映写室)、プール、カードルーム、ジム、日本座敷まで備わっていました。 より多くの外国人客を誘致するために、それぞれの調度品は、世界の一級品を輸入、国際的なレベルを意識したものとなっていました。この船には、吉田茂やヘレン・ケラーも乗船しています。

その後、太平洋戦争に突入し、海軍徴用船、日米間の交換船、海軍戦闘機隊の保養施設として使われ、1944(昭和19)年11月1日、南シナ海で雷撃を受けて、沈没しました。

一等読書室

一等読書室

一等特別室居室

一等特別室居室

浅間丸 主項目

建造所
三菱造船(株)長崎造船所
全長
178.0メートル
総トン数
16,947トン
主機
ズルザー型ディーゼル4基
スピード
20.71ノット
船客
839名
乗組員
329名

照国丸

1930(昭和5)年に竣工した欧州航路の優秀客船。 船舶の性能や大きさで欧米の海運会社に遅れをとっていた日本郵船は、サンフランシスコ航路の浅間丸級、シアトル航路の氷川丸級 計6隻に加え、欧州航路でも、それまでの8,000総トンクラスの使用船舶に代えて1万2,000トンクラスの船2隻を投入して競争力の増強を図りました。

姉妹船の靖国丸と共に欧州航路初のディーゼル船で、ロンドンと日本を結んだほかにも、ロンドンからアントワープ、ロッテルダム、ハンブルクを巡る「ノース・コンチネンタル・クルーズ」を行い、欧州の人々に好評を得ました。船内装飾は、後に人間国宝となる松田権六による蒔絵が起用されるなど日本風を多用し、落ち着きのある、見るからに美しい船でした。

しかし、第二次世界大戦が勃発してから2ヵ月後の1939(昭和14)年11月、英国テムズ河口ハーウィッチ沖を航行中に機雷に触れ沈没。迅速な救命活動により幸い犠牲者は出ませんでしたが、機雷の所有国はついに判明せず、抗議も損害賠償も宙に浮いたままとなりました。照国丸は、第二次世界大戦における日本商船最初の犠牲であり、日本が参戦する以前の唯一の被害船となってしまったのです。

ジム

ジム

一等特別室居室

一等特別室居室

照国丸 主項目

建造所
三菱造船(株)長崎造船所
全長
154.76メートル
総トン数
11,931トン
主機
ズルザー型ディーゼル2基
スピード
17.76ノット
船客
249名

天洋丸

サンフランシスコ航路を開拓した東洋汽船の優秀客船。1908(明治41)年竣工。のちに同社の航路経営が悪化したため、1926(大正15)年に日本郵船が航路を継承し、日本郵船の所有船となりました。

天洋丸は、日本で建船された初の1万総トンを超える大型船で、主機関にはそれまでの石炭に代わり重油を燃料としてたく当時最新式の大型蒸気タービンを搭載し、日本船として初めてドイツ製の無線装置を備えていました。内装にも日本の絹織物をふんだんに使ったアールヌーボー様式の装飾を施すなど、竣工当時、大変話題を呼んだ船でした。

また、1927(昭和2)年に日米友好の目的で交換された「青い目の人形」「答礼人形」を乗せた船としても知られています。

20年以上、姉妹船の「地洋丸」「春洋丸」と共に活躍しましたが、1930(昭和5)年に引退し、浅間丸など優秀船にその道を譲りました。

一等読書室

一等読書室

天洋丸 主項目

建造所
三菱合資会社三菱造船所
全長
167.639メートル
総トン数
13,402トン
主機
直結式タービン3基
スピード
19.07ノット
船客
759名

能登丸

1934(昭和9)年にニューヨーク航路の強化のために建造された7,200トン級のN型高速貨物船6隻の1隻。1935(昭和10)年以降、この6隻で年18回の定期航海を実施し、それまで横浜―ニューヨーク間の航海日数が最低でも36日以上かかっていたのを28日に短縮しました。

ニューヨーク航路は、日本からアメリカへの生糸を主要貨物とする当時の花形航路で、往航では生糸のほかに、フィリピンの砂糖、マンガン、ヤシ油、復航ではアメリカからの鋼材、米綿、雑貨などを輸送し、戦前の日本の貿易に大きく貢献しました。

能登丸は、太平洋戦争開始とともに陸軍徴用船となり、日中間の交通船、南方戦線への軍事輸送に従事しました。 雷撃に遭いながら沈没をまぬがれたこともありましたが、1944(昭和19)年11月2日、フィリピンのレイテ島オルモック錨地で兵士、軍馬、武器、弾薬、自動車、軽戦車、食料などの陸揚げ作業終了間際に、空爆を受けて沈没しました。

綿積込

1939(昭和14)年ガルベストン(米国・テキサス州)での綿の積込

能登丸 主項目

建造所
三菱重工業(株)長崎造船所
全長
137.05メートル
総トン数
7,185トン
主機
ズルザー型ディーゼル1基
スピード
18.534ノット
船客
4名

諏訪丸

1914(大正3)年に欧州航路の花形船として建造された1万1,000トン級の豪華貨客船。船内は英国クラシック調の装飾で、主なインテリアはイギリスから輸入されました。

それまで黒一色だった日本郵船の船のファンネルを社旗である「二引(にびき)」のデザインにした最初の船で、その斬新なルックスは当時強い印象を与えたことでしょう。

太平洋戦争中に海軍に徴用され、1943(昭和18)年3月、兵員、工員他1,091人および軍需品を搭載してマーシャル諸島クエゼリン島からウェーク島に向けて航海中、米潜水艦の魚雷を受け、沈没を避けるため任意に座礁し多くの人命が救われました。

座礁した船体から、米人パイロットらによって「丸窓」や「タイムベル」が取りはずされ長らくアメリカにありましたが、終戦50年後の1995(平成7)年に丸窓が、また、座礁から70年目に当たる2013(平成25)年にはタイムベルがそれぞれの所有者から返還(博物館へ寄贈)されました。現在は展示コーナー「戦争と壊滅」で静かに歴史を伝えています。

座礁した諏訪丸

座礁した諏訪丸

諏訪丸 主項目

建造所
三菱合資会社三菱造船所
全長
153.92メートル
総トン数
11,758トン
主機
三連成2基
スピード
16.46ノット
船客
372名