東洋経済新報社の経済誌「東洋経済」は、日清戦争終結の年、1895年(明治28)に創刊されました。創刊の目的は東洋一の強国となった日本の経済社会をリードし、経済政策への提言・苦言によって国家事業の発達を図ることとされ、記事の他に金融機関をはじめ多くの広告が掲載されていました。中でもわが社は大口広告主で、創刊号には会社要目や乗船料金表、そして料金雑則が7ページにわたって掲載されました。明治28年といえば、欧州・北米・豪州航路が一挙に開設される前年にあたり、料金表を見ると 横浜/琉球、横浜/小笠原、神戸/小樽、北海道西部海岸など国内航路がほとんどを占め、国際航路は横浜/ボンベイ(ムンバイ)を除くと、神戸/中国、香港/ウラジオストック、横浜/上海などの近海航路のみでした。NIPPON YUSEN KAISHA(JAPAN MAIL STEAMSHIP COMPANY) で始まる1ぺージの英文広告では、上海航路のセールスポイントとして横浜でPacific Mail社やOccidental and Oriental社のサンフランシスコ船に接続していることがうたわれています。
当時客船では、わが社に限らず船室のランクによって使用できる船内設備や受けられるサービスに差がありましたが、料金雑則によると、食事は「横浜/上海、神戸/ウラジオストックなどの7航路では上中等船客に洋食を供し、ほかは日本食を供す。……上中等船客以外でも、船によっては上等食は1日2円、中等食は1日1円、下等食は1日50銭の割り増し料金で洋食に変更できる」旨が記載されています。当時の運賃は、横浜/上海間で上等45円、中等28円、下等11円で、上等・中等には約25%の往復割り引きが適用されていました(当時の物価、天丼(どん):4銭、小学校教員初任給:8円)。
会社要目や乗船料金表など、7ページにわたった広告
社内報「YUSEN」
2001年9月号
【表紙のことば】 パリには、画家ドラクロワが晩年を過ごした家が記念館として開放されています。「民衆を率いる自由の女神」(1830年作)が日本でも昨年特別展として大変人気でした。家屋と別棟になっている画室との間にある小さな庭で、母と娘がガイドブックを開きながら「これからどこを回ろうかしら?」と相談している様子に、古今東西同じ風景をうれしく思いました。
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