1820年(文政3)に南極大陸の存在が確認されると、各国の探検隊はこぞって南極に向かいました。白瀬矗(のぶ)陸軍中尉も南極探検を計画、1910年(明治43)11月、27人の隊員と共に204トンの帆船「開南丸」で東京を出帆しました。他国の探検隊派遣が国策であったのに対し、白瀬の場合は彼個人の情熱による壮挙でした。
簡素な装備での極地探検は困難を極め、南極点に立つことはできなかったものの、1912年(明治45)1月には南緯80度05分まで到達。その地に日章旗を立てて付近一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、帰国の途につきました。白瀬隊長ほか数名は、不足していた給与金策などのために「開南丸」より一足先にシドニーを発ちます。その際に利用したのがわが社の豪州航路就航船「日光丸」で、その時の船長は後の八木副社長のお父さまでした。
「日光丸」は1903年(明治36)三菱長崎造船所で建造され、当時国産のシングルスクリューの機関として最大出力・最高速力(6,694馬力、17.8ノット)を誇り、一等公室の装飾に日本風の工芸品を用い、床の間付きの日本座敷なども設けられていました。また、船内の通風・冷暖房装置として「サーモタンク」を初めて搭載した歴史を持っています。
現在開催中の企画展「海洋地球研究船 みらい」の展示物の一つとして、一行が南極で使用した寝袋が10月21日まで歴史資料館に展示されています。
南極探検時の白瀬中尉 (写真提供:白瀬記念館)
「日光丸」の一等日本座敷
1912年(明治45)4月〜5月、シドニーから横浜まで「日光丸」に乗船した白瀬中尉(前列中央)。前列右は八木船長
社内報「YUSEN」
2001年8月号
【表紙のことば】 ジェノバ(イタリア)より電車で数時間、世界的に有名な高級リゾート地であるポルトフィーノに公共交通機関を使って行くには、サンタ・マルガリータ・リグレ駅で下車し、バスで揺られて行くしかありません。猛暑のなかで1時間に数本しかないバスを待っていると、ラファエロの絵に描かれた天使のような子どもたちが水遊びを始めたのでした。
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