松田権六---1896年(明治29)金沢生まれの日本を代表する漆芸家---が、昭和初期に海外向けの蒔絵(まきえ)万年筆を生み出したことは前号の「パイロット萬年筆」で紹介しました。彼は戦後、文化財保存の指導(中尊寺金色堂の保存修理、正倉院宝物の調査など)に尽力し、1955年(昭和30)人間国宝に指定されました。その権六が、昭和初期の当社客船にも足跡を残しています。
1928年(昭和3)、「漆(うるし)の素晴らしさを世界に広めたい」と血気盛んだった権六は、欧州航路の豪華貨客船新造を計画していた当社に紹介状も持たず単身で乗り込み、「船の内装にぜひ蒔絵を使って欲しい」と直訴しました。しかし技師長からは、「外国人船客が漆にかぶれる」「耐久性に疑問がある」「高価」などを理由にはじめは相手にされませんでした。それでもどうにか白仁(しらに)社長以下首脳陣への説明の機会を得て熱弁を振るい、「照国丸」と「靖国丸」の一等ベランダ出入口の扉一対にだけ蒔絵を描くことを許されました。権六32歳の時です。1航海の耐久テストに見事合格し、それどころか高さ9尺の扉に金粉銀粉を使った「満開の藤の花が長く垂れている下に蛇籠」という豪華な蒔絵は大変好評を博し、その後多くの船会社が蒔絵を採用するきっかけになりました。
戦前の豪華客船は国家を代表する工業製品であり、造船技術だけでなく内装も海外から輸入した草創期を経て、日本独自の美意識を加えたインテリアデザインを施すまでに発展しました。しかし、その陰には権六のような芸術家の熱い想いがあったのです。残念なことに、権六の手による内装の船は戦争で撃沈され、今では写真で見ることすらかないません。
「新田丸」一等船客食堂図。中央壁面が権六の蒔絵
社内報「YUSEN」
2001年7月号
【表紙のことば】 スペイン・マラガのメインストリートのパケル通りの横には、樹木も多く緑がとてもきれいな公園があり、市民の憩いの場となっています。この日は天気がよく、子どもたちは歓声をあげて遅くまで遊びまわっていました。
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