明治初期、日本の近代化は政府が雇い入れた外国人に負うところが大きかった。海運も例外ではなく、日本郵船の前身である郵便汽船三菱会社では1876年末に日本人従業員1,351人に対し、外国人388人を雇用していたとされている。彼らは海陸のさまざまな職位に就き、会社のみならず日本の航海技術向上や船員育成に大きく貢献した。
政府指示により、75年には三菱商船学校(現、東京海洋大学)が設立された。日本人船員は近海航路や外国人船長の下で経験を重ね実力を蓄えていたものの、海外の保険会社が積み荷の安全を保証する貨物保険を「日本人船長は経験が浅い」という理由で引き受けなかったため、遠洋航路の船長や機関長になることは困難だった。しかし日本郵船は乗組員育成のため、96年ボンベイ航路の「廣島丸」に初めて日本人船長を採用。島津五三郎船長以下、乗組員も全員日本人とした。このころをピークに当社における外国人船員は徐々に減少し、1920年には高級船員※約1,400人全員が日本人となったのである。
※ 高級船員:船長、機関長、通信長、事務長、航海士、機関士、通信士をいう
前列中央が「廣島丸」島津船長
お雇い外国人アルバート・リチャード・ブラウン(右)と「明治丸」(ともに東京海洋大学所蔵)。 Peninsular and Oriental Steam Navigation社(英国)の一等航海士であったが、明治政府に雇われて来日。灯台建設、港湾・海岸の測量を行う。「明治丸」の日本回航に携わり、郵便汽船三菱会社のために汽船の購入を周旋。三菱商船学校では船員教育にかかわった
アンドレアス・パウル・ウィルヘルム・トムセン(右、トムセン正江氏所蔵)と船長免状。 1884〜96年、航海士として郵便汽船三菱会社で勤務。明治政府から船長免状を受けた98年当時、甲は遠洋、乙は近海、丙は沿岸航路の3種があった
グループ報「YUSEN」
2008年3月号No.607
【表紙のことば】 シャッターに切り取られた日常の一瞬。支えているのはNYKグループです
当ホームページに掲載されている写真・図版・文章等は許可無く転用・転載はできません。