多くのNYKグループ従業員に親しまれている飛田給体育場がオープンしたのは、今から60年前の1942年(昭和17)春のことでした。当初は現在の約2倍の広さ(20,000坪)があり、野球場2面・トラック・フィールド・テニスコート8面・弓道場のほか、社員集会場・児童公園・池庭・農場まで備えていました。しかし、第二次世界大戦中の日本軍の調布飛行場拡張に伴い、野球場を含む土地が接収されて現在に至っています。また、戦後は進駐軍の将校クラブとして利用された歴史も持っています。
土地の手当てや設備計画に当たったのは、錬成部長の中野五郎でした。中野については、早稲田大学ラグビー部の豪州遠征に力を貸した人物として以前この欄で紹介しましたが(「航跡」第9回参照)、飛田給の施設を陣頭指揮して完成させた功労者でもあったのです。戦中・戦後の混乱期は寮長として農場で採れた作物を本店食堂に届けたり、防火水槽の名目でうまく許可を取って念願のプールを完成させたりと手腕を発揮しました。
また、船が日本軍に徴用される際に陸揚げした銀食器が多数保管されていましたが、進駐軍に対してそれらの持ち出しを一切禁じるなど毅然とした態度で臨み、星条旗紙(米軍機関紙)で「接収物件の管理人の中に、敗者の立場ではなく米軍と対等の立場で事を運ぶ男がいる。その名はゴロウ・ナカノだ」と掲載されました。
中野は54年(昭和29)に亡くなりましたが、その葬儀は飛田給体育場で執り行われました。有志によって建てられた『中野五郎君』と題する記念碑が池の横に今も残っています。
オープン当初のクラブハウス
中野五郎記念碑には「君が心の故郷とした此の体育場に君を記念して友人相集り此の石を建てる」と刻まれている
社内報「YUSEN」
2002年11月号
【表紙のことば】
10時ちょうどにやって来るという場内アナウンスのとおり、衛兵の連隊は驚くほどきっかり10時に国会議事堂前の門をくぐって来た。緑の芝生に赤い服、その見た目の華やかさが、伝統ある衛兵交代式を盛り立てていた。カナダ・オタワにて。
(NYK International (USA) 社 石川周)
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