1947年に引揚船としての役目を終えた「氷川丸」は、それから2年間北海道航路で食料品や石炭を運び、戦後の食糧難を支えました。毎航、小豆やするめなどの統制品※1を運ぶ人々で満員状態であったため、新聞に「闇船」と書かれたのも、このころのことです。戦後、総トン数が100トンを超える船舶は連合国軍総司令部(GHQ)の統制下に置かれ、航行区域は日本沿岸とその近海に制限されていました。その統制が徐々に解除されつつあった50年、ようやく「氷川丸」も日本郵船の自主運航に戻ります。そして再開された外国航路に就航後、本格的な客船業務の再開に向けて船内を大改装し、1953年7月に12年ぶりとなるシアトル航路復帰を果たしたのです。以後8年間にわたって貨物はもとよりフルブライト留学制度※2での渡航者約2,500人を含む乗客約1万6,000人を輸送して活躍。しかし、旅客機の普及により、60年8月に横浜港を出港する航海を最後に引退することとなりました。
出港当日には、東京駅から横浜港新港ふ頭へ臨時直通列車が運行され、氷川丸にゆかりのある大勢の人たちが別れを惜しみ岸壁にかけつけ最後の船出を見送りました。激動の昭和を走り続けた「氷川丸」は、その時船齢30歳に達していました。
※1 統制品:値段や配給量が国によって決められ、自由に販売できない品物
※2 フルブライト留学制度:J.ウィリアム・フルブライト米上院議員が中心となってつくられた、米国と相手国による教育交換制度。日本では52年に開始された
船上のフルブライト留学生たち
シアトル航路に復帰した「氷川丸」
グループ報「YUSEN」
2007年6月号No.598
【表紙のことば】 11億人の消費パワーが生まれる国インド。人々は今もガンジス川で沐浴(もくよく)する
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