日本人スポーツ選手が国際舞台で活躍する姿は珍しくなくなりましたが、野球の日米交流は今をさかのぼること100年前、アマチュアチームの遠征という形で始まりました。
日本初の海外遠征チームとなったのは早稲田大学野球部で、日露戦争中の1905(明治38)年にサンフランシスコ経由でシアトルに渡り、ワシントン大学と対戦しました。ダブルスチール、ヒットエンドラン、スクイズ、代打といった今日では基本的な戦術やウォーミングアップなどの練習法を持ち帰ったこの遠征は、まさに日本野球の文明開化でした。1936(昭和11)年までの32年間にシアトル〜日本間で行われたアマチュアチーム遠征は延べ28回にもなりますが、それは当社がシアトル航路を開設していたことと、日本人移民の間でシアトルが野球の盛んな土地柄となっていたことが大きな理由です。早稲田大学の初遠征から3年後の1908(明治41)年にはワシントン大学野球部がシアトルから「土佐丸」で来日し、その時行われた早稲田大学との試合には7,000人を超す観客が詰め掛けたということです。
後年、サンフランシスコ航路が開設されてからはルー・ゲーリック(1903-41)を含むアメリカ・オールスターズが1931(昭和6)年に「龍田丸」で来日するなど、サンフランシスコがシアトルに次ぐ交流の基点となりました。
人力車に乗ってポーズを取るワシントン大学野球部メンバー (1908年 東京にて)
社内報「YUSEN」
2005年12月号
【表紙のことば】 たくさんの笑顔で満たされた「飛鳥」チャリティクルーズ。参加者全員の心に、光り輝く思い出の1つとして残ることでしょう。
当ホームページに掲載されている写真・図版・文章等は許可無く転用・転載はできません。